※本稿は東洋経済オンラインによる寄稿を一部編集・抜粋しています。
あなたの周りには他人を見下して優位に立とうと、自慢話をしたり、知識をひけらかしてしまうマウンティング好きな人はいないだろうか。
しかしそれは、自信のなさの裏返しかもしれず、脅かされたエゴが、偽りの自己を守ろうと必死なせいなのかもしれない。
4000万人ものSNSフォロワーを誇る作家、ポッドキャスターのジェイ・シェティは、僧侶となるべく修行を重ねた経験をもとに、自分らしく生きるためのメソッドを紹介し、世界中から熱狂的な支持を得ている。
世界30カ国以上で刊行され、ニューヨーク・タイムズ・ベストセラー1位ともなり、8月に日本語版が刊行されたシェティの著書、『モンク思考』から、一部抜粋・編集のうえ、お届けする。
謙虚になったとき、僕らは自分の無知を知り、柔軟に学ぶことができる。
よく言われるとおり、学びを妨げる最大の要因は、自分は何でも知っているという思い込みにある。
そして、その種の間違った自信のおおもとにあるのがエゴだ。
『バガヴァッド・ギーター』は真のエゴと偽りのエゴを明確に区別する。
真のエゴは僕らの本質そのもの、つまり、僕らを目覚めさせ、現実を気づかせる意識であるのに対して、偽りのエゴは、自分はいちばん重要で、何でも知っているという思いからつくり出されるアイデンティティーだ。
偽りのエゴを頼りに自分を守ろうとするのは、張りぼての鎧を鋼鉄製と信じているのに等しい。
自分では防備をしっかり固めたつもりでも、戦場へ繰り出した途端、バターナイフでばっさり切られてしまう。
古代インドの聖典『ヴェーダ』にはこんな教えがある。
「富を驕(おご)れば富を失い、力を驕れば力を失う。それと同じように、知識を驕れば知識を失う」。
野放しのエゴは僕らに害を及ぼす。
優越性や賢さを誇示しようとするあまり、自分の本質を覆い隠すようになるからだ。
他者に見せる表向きの顔(ペルソナ)には、ありのままの自分と、こうなりたいと思っている自分、こう見られたいと思っている自分、さらには、そのときの感情が入り混じっている。
家に1人きりでいるときの自分と、世間に見せるときの自分とではバージョンが違う。
違うといっても、公的バージョンのほうが、優しさや寛大さを発揮するために、より努力を要する、という程度の違いならいい。
ところが、そこへエゴが割り込んでくるから厄介なことになる。
自信のない人間は、いかに自分が特別な存在であるかを自他に認めさせることに必死だ。
そこで、実際よりも知識が豊富で、優秀で、自信にあふれた人間であるかのように自分を偽るようになる。
大きく膨らませた自分をさも実物であるかのように提示し、偽りの自己を守ることに躍起になってしまう。
4世紀に生きた、キリスト教の修道者ポントスのエヴァグリオス(またの名を「孤高のエヴァグリオス」。
僧侶や修道士は時として、かっこいい別名をもらうものだ)の著書にも、虚栄心とは「魂を堕落させる最大の原因」と書かれている。
虚栄心とエゴは仲がいい。
人は自分をよく見せるために、途方もない労力を費やしている。
僕らが服装や身だしなみを整えるのは、それが快適だからであり、適切と感じられるからだ
(すでに話したとおり、自分にとっての定番、つまり「ユニフォーム」的なものをそろえておくと、服選びに苦労しない)。
それに当然、人にはそれぞれ、特定の色やスタイルの好みがある。
ところが、エゴはそれだけでは満足しない。
エゴは他人の注目を集めようとする。反響や賞賛を期待する。人に感心されるたびに、自信を強め、喜びを感じる。
ちなみに、インターネットで拡散された有名な画像をご存じだろうか。
投資家ウォーレン・バフェットとマイクロソフト創業者ビル・ゲイツがラフな格好で並ぶツーショット写真には、こんなタイトルが添えられている。
「2人で総資産価値1620億ドル。でもグッチのベルトはどこにも見当たらない」。
僕はグッチを批判しているわけじゃない。
僕が言いたいのは、ありのままの自分に満足している人は、自分の価値をとくに証明しようとする必要がないということだ。
ありのままの自分と表向きの自分の違いを知るためには、1人きりのとき、自分がどんな選択をするかを考えてみればいい。
誰からも批判されず、誰かを喜ばせる必要もないとき、きみはどんな選択をするだろう。
瞑想するか、それともNetflixを観るか、昼寝をするか、それともジョギングに行くか、スウェットパンツをはくか、デザイナーズ・ブランドを着るか。
何を選ぼうときみ以外に知る者はいない。
サラダを食べるのも、ガールスカウトから買ったクッキーを1箱たいらげるのも、きみ次第だ。
周囲に誰もいないとき、感心させる相手も、賞賛してくれる相手もいないとき、どんな自分が立ち現れるか考えてみよう。
ちらちらと見えるその姿に、きみの本質が隠れている。
格言にもあるとおり、「誰にも見られていないときの自分がほんとうの自分」なんだ。
自信ありげに見せ、知ったかぶりをするだけが、自他をだますためのエゴの戦略ではない。
エゴは他者を貶めることさえ厭わない。
相手が「劣って」いると、自分は優越感に浸れるからだ。
そのために、身体的特徴から、学歴、資産、人種、宗教、民族性、国籍、乗っている自動車、着ている服に至るまで、さまざまなものを基準に、自分と他者をランク付けする。
相手を見下すためなら、自分との違いをいくらでも探し出す。
もし、自分と違う歯磨きペーストを使っているからという理由で、人を差別するとしたら、どう考えても、ばかげている。
それと同じくらい、身体的特徴や生まれを理由に差別をするのも間違っている。
肌の色の違いは、血液型の違いより、なぜ問題になるのか。
人間は同じ細胞でできている。
ダライ・ラマ14世は言う。「明るい太陽の下、わたしたちの多くは、言語も服装も信念も違いながら、ともに生きています。誰もが同じ人間であり、それでいて、1人ひとりが『わたし』という思いをもっています。そして、それぞれに幸福を求め、苦痛を逃れようとしている点で、わたしたちはみな同じなのです」
インドのカースト制度は「ヴァルナ」の誤用から生まれた。
司祭階級バラモンは出自で決まり、他者よりすぐれているから、統治システムの上級職に就くのは当然だ、とする考えは、ヴァルナのエゴ的解釈にほかならない。
一方、慎み深い賢人は、生きとし生けるものの価値を区別しない。
僧侶が肉食を避けるのはそのためだ。『バガヴァッド・ギーター』にはこう書かれている。
「完璧なヨーギー〔訳注:ヨーガを実践する人〕は、幸福であれ、不幸であれ、我が身に置き換えることで、あらゆる存在の真の等しさを見る」(第6章32節)
成功でのぼせ上がると、人は他者を平等に見ることができなくなる。
きみがどんな人間であれ、何を成し遂げたのであれ、自分は偉い人間だと思って、特別扱いを期待し、要求するとすれば、それは大問題だ。
人生という劇場では、自動的にいい席をゲットできて当然などという人間は1人もいない。
舞台に近い席がほしければ、チケットの発売前日から何時間も並ぶとか、それなりの金額を支払うとか、優待席をねらって劇場のサポート会員になるといった努力が必要だ。
その努力をしないなら、大半の人間のように、良席が手に入りますようにとひたすら願うしかない。
ところが、もしきみに無条件の「特権意識」があるとしたら、ほかの観客より自分は特別と思うのはなぜなのか、よく考えてみるべきだ。
傲慢な者は尊敬の念をほしがるが、謙虚に働く者は自然に尊敬の念を抱かせる。
僕がよく思うのは、いったいどうすれば、すべての人間がお互いを世界市民だと思えるか、ということだ。
アメリカの広告協議会が展開する「愛にラベルはない」というキャンペーンの一環で、僕は何本か動画を撮影したことがある。
フロリダ州オーランドに行って、ナイトクラブ「パルス」の乱射事件〔訳注:2016年6月、オーランドのゲイナイトクラブで起きた銃乱射事件。死者は犯人(男性)を含む50人。同性愛者への嫌悪が動機とされる〕のその後を人々に尋ねたり、悲劇を乗り越えるためのコミュニティーの動きを聞いたりした。
僕が会ったテリ・スティード・ピアース牧師は、パルスの近くに教会を構え、信徒に多くのLGBTQ+(性的マイノリティー)を抱えている。
一方、ジョエル・ハンター牧師は、おもに白人の異性愛者を信徒にもつ。
悲劇の後、2人はともに働き、友人になった。
「こうしてわたしたちが会話を交わしているだけで、勇気づけられる人がいるはずです」とピアース牧師が言うと、ハンター牧師が続ける。「それこそが未来を変えるための基本ですから」。
ピアース牧師が言うように、2人は「世界を変えようと志を同じくする人間同士」にほかならない。
彼らの見事な友情を見ていると、こんな疑問が生まれてくる。
なぜ僕らは、悲劇を経なければ、団結できないのだろうか?
エゴの力で、僕らは自分や自分の「同類」ばかりを尊ぶ道を歩まされてきた。
ある日突然、ブルドーザーになぎ倒されない限り、その同じ道を歩み続けるのはなぜだろう。
どんな相手であっても平等に見なすことができれば、エゴを抑えられるはずだ。
誰かの地位や価値が自分より劣っていると感じたら、自分を振り返ろう。
そんなふうに感じなければならないほど、自分のエゴが脅かされているのはなぜなのか。
そう考えることが、あらゆる人を等しく敬い、尊重するモンク・マインドの基本姿勢だからだ。 (翻訳:浦谷計子)