有名なマズローの欲求5段階説。批判も多いことで知られていますが、「幸福」の現代的な状況に通じる深い論点が含まれているようです。
昨今、「幸福」あるいは「ウェルビーイング(Well-being)」というテーマへの関心が高まってきている。
「GDP(国内総生産)」に代わる「GDW(グロス・ドメスティック・ウェルビーイング)」というコンセプトが唱えられたり、さまざまな企業が「ウェルビーイング」に注目した展開を進めたりするなど、ビジネスや経済・経営の領域にまで広がっているのが最近の動きの特徴と言えるだろう。
こうした動きの背景にあるのは、GDPのような従来型の経済指標だけでは、現在という時代にそくした「豊かさ」や人々の求めるものは把握できず、それに代わる指標ないしコンセプトが必要になっているという認識である。
このような展開は、広井良典氏による『人口減少社会のデザイン』や近著『無と意識の人類史』で論じられた内容とさまざまな面で関わっている
本稿では「幸福」「ウェルビーイング」をめぐる近年の動向の意味を、幅広い視点からとらえなおす。
※この文章は、広井 良典 :(京都大学こころの未来研究センター教授)による東洋経済オンラインへの寄稿を一部再編集・抜粋しています。
もともとこうした「幸福」ないし「ウェルビーイング」への注目は、すでにある程度知られているように、ヒマラヤのふもとに広がる小国ブータンが1970年代から唱えている「GNH(グロス・ナショナル・ハピネス、国民総幸福量)」に1つのルーツを持つものだった。
時代の流れを確認すると、こうした話題への関心はリーマン・ショックが起こった2008年頃から新たな局面に入り、たとえば2010年には、フランスのサルコジ大統領(当時)の委託を受け、ノーベル経済学賞を受賞したスティグリッツやセンといった著名な経済学者が「GDPに代わる指標」に関する報告書を刊行している。
また、先進諸国の集まりであるOECD(経済協力開発機構)も「Better Life Initiative(よりよい生活に向けたイチシアチブ)」と呼ばれるプロジェクトをスタートさせ、2011年には幸福度指標に関する報告書(“How’s Life?: Measuring Well-being”)をまとめ、さらに続編を逐次公刊している。
日本での動きはどうか。日本の場合、内閣府に設置された「幸福度に関する研究会」の報告書が2011年にまとめられているが(私も委員の1人として参加)、実は日本において特徴的なのは、意外にも地方自治体がこうした動きに先駆的に取り組んできていることである。
最も先駆け的な展開を進めたのは東京都荒川区で、同区は2005年という早い時期に「GAH(グロス・アラカワ・ハピネス。荒川区民総幸福度)」を提唱するとともに、2009年には区独自のシンクタンク(荒川区自治総合研究所)を設立し、住民の幸福度に関する調査研究や指標づくりに着手し、2012年には6領域、46項目にわたる独自の幸福度指標を策定し公表している。
さらに指標づくりだけにとどまらず、並行して「子どもの貧困」「地域力」といったテーマを順次取り上げ、幸福度に関する研究を具体的な政策にフィードバックさせる試みを行ってきているのである。
さらに、以上のような展開に共鳴した全国各地の市町村が、「幸せリーグ(住民の幸福実感向上を目指す基礎自治体連合)」というネットワークを発足させ(2013年)、幸福度に関する指標づくりや政策展開についてさまざまな連携を進めている(現在約90の市町村が参加しており、私は顧問の1人)。
ちなみに、都道府県のレベルでも幸福度指標に関するさまざまな動きが進んでいるが、特に近年、幸福度指標に関する展開を丹念な調査とともに進め、かつそれを政策に具体的につなげる形で展開してきている県として岩手県が挙げられる。同県は2016年から2017年にかけて有識者からなる「『岩手の幸福に関する指標』研究会」を設置して検討を行い、独自の幸福度指標を策定すると同時に、さらにその内容を2019年3月に策定された「いわて県民計画」に盛り込んだのである。
以上、企業を中心とする「幸福」あるいは「ウェルビーイング」への昨今の関心の高まりから始め、この話題をめぐる世界と日本の大きな流れを確認したのだが、こうした話をすると、ある意味で当然のことながら、次のような根本的な疑問が浮かんでくるだろう。それは、
「『幸福』は個人によってきわめて多様かつ『主観的』なものであり、それを数字で指標化することなどできないし、ましてやそれを行政が『政策』に活用するといったことはありえない」という疑問である。
これはごくもっともな疑問で、このテーマだけで1冊の本になるような広がりと深さを持つような話題だが、しかし基本的な論点はある意味でシンプルであり、以下これについてさらに考えてみよう。
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「幸福の重層構造」を示したもので、まずは「生命/身体」に関わるような次元である。
具体的には日々の十分な食料を得ているとか、身体の健康や安全が保たれているといった基本的なレベルであり、これは人間が生きていくにあたり不可欠のニーズに対応するもので、“幸福の物質的基盤”とも言える。それは「幸福の基礎条件」あるいは「幸福の土台」をなすものであり、しかもこうした次元は個人差を超えて大方共通しており、「人間」にとって普遍的なものと言える。
以上が主として「個体」レベルに関わるものとすれば、真ん中にあるのは「コミュニティ」あるいは他者とのつながりに関わる次元である。いうまでもなく、人間はコミュニティあるいは社会的関係性の中で生きる存在であり、たとえば狩猟採集の時代を想像すれば見当がつくように、食べ物を得るにしても外敵から身を守るにしても、人間は“1人では生きてはいけない”生き物なので、「コミュニティ」を作ることを通じて個体としての「生存」を確実にしようとしたわけである。
もちろんそれは“快適”な面ばかりではなく、そこには「愛憎」や「葛藤」、さまざまな「しがらみ」「拘束」等々といったネガティブな要素も生まれる。しかしそれらを含めて、コミュニティあるいは他者との関係性から生まれる情緒的安定や帰属意識、「承認」や誇り、自尊心といったものが、人間の「幸福」にとってきわめて重要な位置を占めているのは確かなことだろう。
冒頭で述べた「GDP」との関連でいえば、以上のような「コミュニティ」や「つながり、関係性」に関わることは、実はGDPそのものには含まれていないことに気づく。けれどもこうした側面が、上記のように人間の情緒的安定や精神的な充足に深く関わっており、したがって「幸福」と何らかの関係にあることは確かだから、ここに「GDP」と「幸福」の間に乖離が生じる理由の1つがあるとも言えるのである。
ちなみに、国連の関係組織である「持続可能な発展ソリューション・ネットワーク」が数年前から『世界幸福報告(World Happiness Report)』を毎年公表しているが、その2021年版では日本は56位で、かなり低いポジションにある。
この報告書はそれをいくつかの要素に分解して説明しているのだが、日本において特に低い項目の1つに「社会的サポート」という点があり、これは“困ったときに助けてくれる人がいるか”という点に関するものである。まさにここで論じている「コミュニティ」や「つながり、関係性」に関わる点であり、現在の日本社会の根本にある課題と言えるだろう(拙著『コミュニティを問いなおす』参照)。
以上、幸福の重層構造ということで、「個体(生命/身体)」のレベル、「コミュニティ」のレベルと見てきたわけだが、最後にピラミッドの一番上の層は「個人」に関わる次元である。これは「自由」や「自己実現」「創造性」といった価値に対応するものだが、ここで重要な点は、想像できるようにこの層に至ると個人の「多様性」ということが前面に出ることである。したがってこの次元に注目すれば、先ほどの幸福指標への「疑問」にも示されていたように、まさに“幸福のかたちは人によって多様”となり、一律の尺度をあてはめることは困難になる。
人生の姿は無限に多様であり、それぞれの人の人生の「幸福」を、1つの物差しで評価できるはずなどないというのは、ほかでもなくこの次元に対応していると言える。
政府ないし行政が「幸福」に関わる主領域について述べたが、では民間企業の場合はどうか。
まず大きくいえば、政府や行政とは逆に、「幸福の重層構造」におけるピラミッドの“中層”以上の部分、つまり「コミュニティ」や「つながり」、そして上層の「個人」の自己実現や創造性(クリエーティビティー)に関わる領域が、民間企業のビジネスと親和性が高いと言えるだろう。同時に先ほども指摘したように、こうしたピラミッドの上層部分になればなるほど、それはきわめて「多様性」に富むものになっていくので、それらは従来よりも“細分化ないしセグメント化されたマーケット”になっていき、画一的な製品や一律のサービスでは対応できなくなっていく面がある。
もちろん、ピラミッドの土台にある「生命/身体」に関わる領域、あるいは“幸福の物質的基盤”の次元も、実際には日々の食事を含めて日常生活の“衣食住”がそれに該当するので、これらの財・サービスはマーケットを通じて民間企業によって提供されているわけである。しかし現在の先進諸国においてはこうした“物質的需要”は大方満たされているので、自ずと今後発展していくマーケットはどこかとなると、やはりピラミッドの中層・上層部分ということになる。
逆にいえば、本稿の冒頭から述べているように、経済ないしビジネスの領域において近年「幸福」あるいは「ウェルビーイング」というテーマへの関心が高まっているのは、こうした「幸福の重層構造」のピラミッドにおける中層そして上層部分(特に上層部分)が、いわば人々の需要の“最後のフロンティア”として立ち現れ、かつ認知されるに至っているからと言えるだろう。
しかし一方、この“「幸福の重層構造」のピラミッドにおける中層・上層部分”は、先ほど指摘した「多様」であることに加えて、ある意味で非常につかみどころのない、定量化や把握が難しい領域である。ピラミッドにそくして上層部分を説明した際、それは「自己実現」や「創造性」といった価値に関わる領域であると述べたのだが、はたしてそれはどのような中身になるのだろうか。
実は、意外にもここで手がかりとなるのが、よく知られたアメリカの心理学者マズローの議論である。あらためて言うまでもないかと思うが、マズローはに要約されるような人間の欲求の階層構造を示した。
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これについてはさまざまな批判もあり、また私自身、“このくらいの内容なら中学生でも考えるだろう”といった感じで以前はマズローの議論をとらえていたのだが、最近になって彼の議論には、地球環境問題との関わりなどを含め、きわめて現代的な状況に通じるような深い論点が含まれていることに気づかされるようになった。
ちなみに、本稿のテーマである「幸福」や「ウェルビーイング」をめぐるテーマに光をあて、それを学問的な研究対象そして社会的な関心事にしていくにあたり貢献したのは、1990年代頃から浮上してきた「ポジティブ心理学」と呼ばれる領域である(ポジティブ心理学については例えばセリグマン『ポジティブ心理学の挑戦』参照)。
そして、実はマズローの議論や彼の「人間性心理学(humanistic psychology)」と呼ばれるアプローチは、ポジティブ心理学の主要な源流の1つとされているのであり、つまりこうした流れにおいてもマズローと「幸福」のテーマは自ずと結びつくのだ。
そしてここで特に注目したいのは、晩年のマズローが、上記のような欲求の階層構造の最後に位置づけていた「自己実現」のさらにその先に、「自己超越」(または単に「超越」)という次元を付け加えたという点だ。「自己超越」とは、マズローによれば「自分自身、そして大切な他者、人類全体、他の生物、自然、そして宇宙とつながること」を意味している(“The Farther Reaches of Human Nature”)。
ちなみに私自身は、冒頭でふれた拙著などで「地球倫理」ということを論じ、それを「地球環境の有限性や多様性を認識しながら、個人をしっかり立てつつ、個人を超えてコミュニティや自然、生命とつながる」ような志向として述べた。
「自己超越」という言葉を含め、このように記すと随分と抽象的でいささか“浮世離れ”した議論をしているように響くかもしれないが、そうではない。
こうした点に関する、私にとって身近な例を挙げてみよう。近年、いわゆるソーシャル・ビジネスや社会的企業を立ち上げるような学生の志向や、若い世代の一部に見られる社会貢献意識は、ここで述べている「自己超越」と通底するところが大きいように思える。
たとえば、農業と再生可能エネルギーを組み合わせた「ソーラーシェアリング」という事業――田んぼや畑の上部に特殊な形の太陽光パネルを設置して食料生産と自然エネルギーの一石二鳥を図る試み――を進める環境系のベンチャー企業を立ち上げた卒業生の言動には、そうした志向が感じられる。
また、社会的課題の解決に向けた会社をスタートアップした別の卒業生は、自分がやりたいのは「自己実現」ではなく「世界実現」であると語っていた。つまり「自己実現」というと、どこか自分の中で完結したようなニュアンスが残るのに対し、彼の場合は、むしろ世界(ないし社会)そのものを望ましい方向に近づけていくこと――世界実現――が基本にある関心であるというのがその趣旨だった。
こうした若い世代の関心や活動は、いみじくもマズローの言う「自己実現/自己超越」と重なっているように見える。
つまりそれは、個人が限りなく利潤を極大化する、あるいはGDPの無限の増加を追求するといった近代資本主義のベクトルとはやや異なり、コミュニティや自然とのつながり、社会貢献、ゆるやかに流れる時間といったものへの志向を含んでいる。
そして以上に挙げたような例が示しているように、それは“ビジネス”としての事業性を持ちながら、それに尽きない、ある意味でSDGs的な理念とも通じるような性格をあわせもっている。
そうした方向が、本稿で論じた「幸福の重層構造」のピラミッドの最上層部とつながり、言い換えれば「人間の需要の“最後の未開拓の領域”」としての「幸福」「ウェルビーイング」という発想と重なるのではないか。
それは人間にとっての究極的な「イノベーション」の段階であるとも言え、人類史的な展望の中で取り組んでいくべきテーマと言っても過言ではないのである。