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500円食べ放題「はっちゃんショップ」は心も満たす。85歳の田村はつゑさんインタビュー・ルポ

500円食べ放題「はっちゃんショップ」は心も満たす。85歳の田村はつゑさんインタビュー・ルポ

80歳を過ぎてもすごく元気で、自分のやりたいことを追求し続ける女性。

一体、そのパワーはどこから生まれてくるのでしょうか?

今回の記事では、500円で食べ放題のランチ限定の食堂を切り盛りする85歳の田村はつゑさんをご紹介します。(取材・文=篠藤ゆり 撮影=本社写真部)

※本稿は、婦人公論による寄稿を一部再編集・抜粋しています。

料理に「はっちゃんの気持ち」が入っている

85歳になるいまも、ランチ限定の食堂「はっちゃんショップ」を切り盛りしている「はっちゃん」こと田村はつゑさん

一人500円で食べ放題の料理を求めて、多くの人が群馬県桐生市郊外にある小さな店を訪れる。

いまは新型コロナの影響もあって客数が減っているが、以前は県外からの客も多く、開店時間の11時30分には店外に列ができていたそうだ。

この日は、塩鮭、焼き塩サバ、じゃがいもの煮物、かぼちゃの煮物、切り干し大根など庶民的な家庭料理が15皿ほど並んでいた。鍋には魚のあら入りの味噌汁。漬物や塩辛、焼きそばなどもある。目玉はふきのとう、山椒、ナスの天ぷら。山椒は前日、はつゑさんが採ってきたとのこと。

店内を見渡すとお客さんは7〜8名ほど。食事を終えて店を出る人と入れ替わりに、また客が訪れる。一人客は、はつゑさんに言われるまでもなく相席になる。皆、口々に「ここに来たら、みんな知っている者同士のようにおしゃべりをする」「料理にはっちゃんの気持ちが入っているから、また来たくなる」と言う

30代の男性は、仕事が休みの日は自転車で30分かけてやってくるそうだ。「ごはんがおいしいのはもちろんだけど、はっちゃんやほかのお客さんと話すのが楽しくて」と語る彼にとって、はっちゃんショップは人と触れ合える貴重な場となっているようだ。

おかずが減った頃に来たお客さんからはお金をとらないのがはつゑさんのポリシーだ。この日も、「500円払おうとしたら、無理やりお金をポケットにねじこまれちゃったよ」と笑っている人がいた。

手が空くと席に座ってお客さんの話に耳を傾ける。おしゃべりの時間が何よりの楽しみだという。

開店当初から一人500円という値段は変わらず、小学6年生までの子どもは無料。毎月7万円ほど赤字が出るが、8年前に亡くなった夫の遺族年金で補填している。「儲けるためにやってるわけじゃないから」と、はつゑさん。大変だろうからと、お米や野菜を届けてくれる人もいると聞き、地域に愛される食堂なのだとより一層感じる。

やる気があれば、どんな苦労も我慢できるという

起床は7時半頃。起きたら頬を掌で叩き、「がんばんぞー」と拳を握って気合を入れるのが日課だ。「みんなもやったほうがいいんじゃないの? やる気がなけりゃあ、なんにもできないよ」

自宅の向かいにある食堂にやってくるのは8時。3時間ほどかけて、コロナ以前は50人分ほどの料理を作っていた。開店中はお茶を配ったり、お客さんとおしゃべりしたり、常に動き回っている。最後のお客さんを見送ると片づけをし、翌日の食材の調達にでかける。

「いまでも30キロの米、持ち上げて運んで、バイクで精米所に行ってるよ」。足腰が痛くなったりしないのかと聞くと、「どこも痛くないよ」と頼もしい。

店を手伝っている76歳の住吉竹美さんは、「はっちゃんと一緒に働いていると元気が出るね」と言う。どうやら手伝いの人もお客さんも、はつゑさんからパワーをもらっているようだ。

はつゑさんは「やる気があれば、どんな苦労も我慢できる」と語るが、実際その人生は苦労の連続だった。3歳の時、渡良瀬川の氾濫で家が倒壊。終戦翌年、母親が32歳の若さで病死すると、父親は以前からの浮気相手だった女性を家に入れた。継母とうまくいかず、10歳で魚屋に奉公に出されるが、稼ぎはすべて父親にとられた。

17歳で、地場産業の機屋(はたや)で働き始めたが、父親が給料を前借りしたため、毎月小遣いの200円しか手にすることができなかった。その200円で映画を見るのが唯一の楽しみだったというはつゑさん。映画館で2歳上の田村昇三さんと出会って結婚し、3人の子どもを授かるが、夫の女性関係に悩まされた。

子育てをしながら内職、11時から午後2時までは工場でお茶出し、3時から8時までは魚屋で働き、日曜日は結婚式場でお運びのアルバイト。働きづめに働きながら、日曜の給料だけは自分のためにと、15年で300万円貯めた。

50ccの原付バイクで、3ヵ月半かけて日本一周の旅

57歳の時、はつゑさんは思い切った行動に出る。50ccの原付バイクで、3ヵ月半かけて日本一周の旅に出たのだ。当初、夫から反対されたが、引き下がらなかった

「小学校にも行かせてもらえなかったから、遠足も修学旅行も行ってない。だから一人で修学旅行したいなぁって。離婚してでも行きたいよって言ったら、自分の退職金から100万円くれたんだよ。子どもたちも、お金出してくれた」

500万円を持って旅に出たはつゑさんは、長崎県雲仙普賢岳の被災者のために300万円を寄付するなど、あちこちで寄付をする。「コンビニのおにぎりでも食ってればいいや、と思ってね。身体が丈夫だし、また働けばお金になるから」。

一方で人のやさしさにも触れる旅だった。九州のある町では、宿屋がどこも満室で8軒に宿泊を断られたが、ガソリンスタンドの店主が家に泊めてくれた

「あぁ、こういう親切な人もいるんだなぁって。みんなに助けられて生きているようなもんだよ」。その思いが、赤字が出ても500円で食堂を続けている原点だという

みんなが喜んでくれるなら、それでいい

日本一周から5年後、長年パートをしていた会社の倒産で職を失い、一念発起して惣菜の行商を始めた。魚屋で働いていた頃、煮物作りを担当していたのでお手の物だ。するとこれが評判に。「ごはんと味噌汁つけたら食堂やれるよ」とまわりに勧められ、68歳で自宅の自転車置き場だった小屋を改装して食堂をスタートさせた。

近年は、テレビなどで紹介されたことで県外からの客も増えたが、地元の一人暮らしの高齢者の支えになっていることがうかがえる

「出前もしているよ。知り合いが、足や腰が痛いから届けてほしいというので、昨日も3軒配達したよ」と住吉さんが教えてくれた。

「常連さんは80歳くらいの人が多いかなぁ。そういう人には、余ったおかずは持たしてやるんだ。ここで知り合って、結婚した60代の人もいるよ」と語るはつゑさんは嬉しそう

だが、子どもたちからは、人にそんなに親切にしても、倒れた時に何かしてもらえるわけじゃないよ、と釘をさされているそうだ。

「かまやしないよ。みんなが喜んでくれるなら、それでいい。そのためにやってるんだから。お金がなければ、ないような生活をすればいいんだし。自分のことを自分で決められる自由さえあれば。いまが人生で一番幸せだよ

人に喜んでもらうことがパワーの源、そう言い切るはつゑさん。昨年の緊急事態宣言中は店を閉めていたが、今年はこういう時だからこそ、頑張ってなんとか続けていきたいと笑った。その笑顔はこちらが励まされるものであった。