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有吉弘行 “どん底”から這い上がった「毒舌王」の素顔を紐解く

有吉弘行 “どん底”から這い上がった「毒舌王」の素顔を紐解く

テレビで見ない日はないと言っても過言ではない。それはお笑いタレント・有吉弘行(47)のことだ。ヒッチハイクで一世を風靡し、急転直下レギュラーゼロも経験した有吉は、今やバラエティ界の頂点にまで上り詰めた。その浮き沈みを知る共演者が語る“素顔”とは──。ノンフィクションライターの中村計氏がレポートする。 (文中敬称略)

※本稿はNEWSポストセブンによる寄稿を一部編集・抜粋しています。

オール巨人の弟子時代から振り返る

要領が悪いのにかわいがられる。18歳の頃の有吉弘行に対し、兄弟子の堀之内裕史は激しく嫉妬していた。

「有吉は媚を売ったり、おべんちゃらを言うタイプではない。でも、不思議なんですけど、先輩にも、師匠方にも、有吉の方がかわいがられる。だから、嫌いでしたね」

冠番組11本。有吉は今、テレビタレントとして最高峰に君臨している。4月にはフリーアナウンサーの夏目三久との結婚を発表し、私生活ともども誰もが羨むようなポジションまで上り詰めた。

そんな有吉だが、ブレイク以前を知る人物の多くは「こんなことがあるもんなんですね」と、一様に首をかしげる。

堀之内は元芸人で、有吉と同じく、かつて漫才師・オール巨人の弟子だった。現在は滋賀県内の整体院「AQUAグループ」の社長だ。滋賀県一の整体院にすることが当面の目標だと話す。

堀之内と有吉が出会ったのは1993年春のこと。上岡龍太郎と島田紳助が出演する深夜番組『EXテレビ』で、オール巨人の弟子を募り、公開オーディションが行なわれた。そこで合格したのが同い年の堀之内と有吉の2人だった。

すでに大阪に住んでいた堀之内はすぐに師匠宅通いを始めた。それに対し、地元・広島県に住んでいた有吉は数週間遅れで大阪にやってきた。そのため、入門許可が下りたタイミングは一緒だが、堀之内は有吉の兄弟子という扱いになった。

気が回り、用意周到な堀之内は、ほとんどヘマをしなかった。一方、有吉は、オール巨人に怒られてばかりいた。

最初に厳しく指導されたのは広島弁だった。堀之内が回想する。

「有吉は広島弁が出るたび、師匠にあかんと言われてました。今では考えられないですけど、当時はまだ漫才は関西弁でやるものという意識が強かったんです。訛ったら怒られるし、でも話さなあかんし。それから、有吉はうまくしゃべれなくなってしまった。『…え』、『…え』みたいな」

オール巨人は関西の師匠の中でも、特に弟子に厳しいことで知られていた。有吉が車のトランクに師匠の舞台衣装であるスーツを入れる時、急いでいたため放ったことがあった。オール巨人はバックミラー越しにその瞬間を見逃さなかった。堀之内が思い出す。

「すごいプレッシャーを感じながら動いていたので、わからないでもないんですけどね……。有吉は、靴を左右逆に揃えては『足、曲がるわ!』と怒られ、靴ベラを差し出す時に頭の方を突き出しては『お前は俺に靴まではかせてくれるんかい!』と怒られ。あと、いつも師匠のおしぼりを3つぐらいずつ用意していくんですけど、有吉のおしぼりはなぜかいつも臭いんですよ。それでも師匠の気分を毎度、損ねさせていました」

ところが、ミスをしても援軍が現われた。有吉が師匠のスーツをカーブのついたハンガーにかける時、前後を間違えたことがある。つまり、湾曲した部分が胸側に張り出す形になっていた。

オール巨人がそのことを咎めると、相方のオール阪神が割って入った。自分の鳩胸をいじるネタがあったオール阪神はこう言って相方をなだめたという。

「いつも俺が鳩胸のネタをするから、(オール巨人の胸も)鳩胸にさせたかったんやろな」

兄弟子を殴打する一幕も

自分ばかりが貧乏くじを引かされているような気持ちになった堀之内は、次第に有吉とほとんど口をきかなくなった。そんなある日、事件が起きた。

餃子が売りのチェーン系中華料理店で2人が昼飯を済ませた。昼時でレジが混んでいたため、堀之内は有吉に2人分を一緒に精算してくれるよう頼んだ。無論、あとで払うつもりだった。だが何かを誤解したのか、有吉が露骨に不服そうな表情を浮かべた。堀之内の証言だ。

「有吉が『表へ出ろ』と。人気のないところに連れて行かれて、いきなり殴られて。歯を一本、折られました。なので、僕も殴らせろと言いました。それを師匠に報告したら『2人ともクビや!』って。1週間ぐらい通って、なんとか許してもらいました。有吉はその後、2回ぐらい『クビや!』と言われて、失踪しました。有吉と一緒に過ごしたのは4月から12月、8か月くらいでしたね」

それから3年が経ち、有吉はお笑いコンビ猿岩石の1人として『進め!電波少年』に出演する。ヒッチハイクでユーラシア大陸を横断するという過酷な企画に挑戦し、瞬く間に日本中の注目を集めた。

その放送を見た堀之内は腰が抜けそうになった。

「あれから巨人師匠は僕の前では有吉の名前は口にしなくなりましたね。僕はまだ弟子として、おしぼりを渡したりしていたので、気の毒に思ったのかもしれません」

堀之内は弟子修業を4年で上がり、それからほんの少し漫才師として活動したが、「有吉の売れっ子ぶりに精神が持たない」と廃業を決意。別の道を選んだ。しかし、今も有吉を意識せずにはいられないという。

あるテレビ番組で、有吉が高級腕時計を買っているのを観た。翌日、堀之内は負けじと100万円の腕時計を購入した。

「みんなにアホかって言われましたけど、有吉だって、他人から見たらバカみたいなことにこだわってきたから、今があるはずなんですよ。だから、いつか、僕も……」

“ライオンの甘噛み”

『進め!電波少年』で猿岩石がブレイクしたのは1996年だ。翌1997年、『KEN-JIN』という広島県内のローカル番組で猿岩石と初めて仕事を共にした中国放送の名物アナウンサー、横山雄二が当時のフィーバーぶりをしみじみと振り返る。

「もう、歩くところ歩くところパニックになってましたね。『KEN-JIN』はなるべく県出身者を呼ぼうということで、第1回目のゲストが吉川晃司さんで、第2回目が猿岩石だった。そこから半年とか1年くらいは、会うたびに僕らも誇らしかったのを覚えています」

だが、いい時は長くは続かなかった。猿岩石と横山が出会って1年を過ぎたあたりから、2人の人気が急激に陰り始めた。横山はあっさりと言う。

「自然現象でしょうね。タレントなんて、凧といっしょ。上がったら、落ちるもんなんです」

猿岩石のタレントとしての価値は大暴落した。しかし、番組制作も担当していた異色のアナウンサーである横山は、番組が終了する2005年まで有吉を起用し続けた(猿岩石は2004年に解散。以降は1人で出演)。その理由を問うと「憎めないやつなんですよ」と答えた。こんなことがあったという。

「当時、東京ロケをする時、僕らは六本木プリンスホテルに泊まっていた。広い部屋だったので、夜遅くまで飲んで、若い芸人さんは帰れなくなると誰かの部屋に泊まっていった。有吉も『僕も泊まっていっていいですか?』って言うから、いいよって言うと『明日の衣装がないんです』って言い出すんです」

横山は衣装代として1万円を渡した。すると、有吉は六本木のドン・キホーテで衣類を買い込んできた。今まで着ていた服をゴミ箱に捨てて、翌日は、それらの新しい服でくる。そして、その日の夜も全く同じ行動を繰り返したという。

「新しい服を買って、昨日買ったばかりの服をまた捨てるから、それ、捨てなくていいんじゃない? って言ったんです。そうしたら、『芸能人は一度着たものはもう着ないんっすよ』って。先に風呂に入って、残りのバスタオルを全部ビショビショにされたこともあったなあ。そんで、こっちが困っているのを見て、ヘラヘラ笑ってるんです」

──それはからかっているのでしょうか?

「向こうからしたら、甘噛みみたいな感じなのかも。でも、ライオンの甘噛みって、まぁまぁ痛いじゃないですか」

横山は有吉を「ライオン」と表現した。有吉の牙を何度となく目撃したことがあるからだ。

あるラーメン店で取材をした時、もはや「過去の人」になっていた猿岩石に対し、店主が「テレビでよう見んやつがおるのぉ」と皮肉を言った。すると、有吉は差し出されたラーメンを黙って外に放り投げた。横山は慌てて「謝れ!」と注意したが、有吉は決して謝らなかった。横山が話す。

「落ち目の人間を笑うような奴は絶対にスルーしない。実は凶暴さを隠し持っているんですけど、普段はそれを一切、表に出さないんです。きついことを言っても、その後、すぐ笑いますよね。あと、その頃、社交辞令でサインを求めてくる人がけっこういたんです。有吉は、この人は本当はもらいたくないんだろうなと思ったら『有』って書いて○で囲んでました。手抜きサインです」

『別冊 有吉文庫』を出版する

長く雌伏の時期を過ごした有吉だったが、2007年、『アメトーーク!』で品川庄司の品川祐を「おしゃべりクソ野郎」と呼び、大爆笑をかっさらったことをきっかけに再ブレイクの道が拓けた。

猿岩石と同じ「出世コース」を歩んだ芸人がいる。お笑いコンビのドロンズだ。彼らも『進め!電波少年』で海外へヒッチハイク旅に出て、帰国後、ブレイクした。しかし、猿岩石同様、ブームは去り、2003年に解散を選んだ。

元ドロンズで、タレントの大島直也は、有吉が再ブレイクできたのは、ひと言で言えば「執念」だと話す。

「有吉は根っからの芸人なんですよ。本当に芸人になりたかった芸人。もともと毒づくキャラクターで、でも、旅から帰ってきて英雄になってしまったもんだから、毒づいた笑いをやると引かれちゃった。そこから時間はかかりましたけど、英雄キャラを払拭した。低迷していた頃、深夜番組とかで、かつて売れっ子だったというプライドも全部なげうって、下から這い上がろうとしている感じがカッコよく見えましたね。先輩とかも、そういうのを見ていたら、応援してあげたくなるじゃないですか。あだ名をつける芸も、言われた方は言われた方で、そのキャラに乗ってあげていたんじゃないですか」

有吉は2002年に『別冊 有吉文庫』という約60ページからなる小冊子を自費出版している。そこには、様々な偽名を使って『鼻くその行進』というエッセイのようなものを書いたり、『ガラコ』という小説を書いたり、はたまた詩を書いたりしている。

そこに何かが存在するとしたら、大島が言う「執念」以外の何物でもない。【利家と若松】という『利家とまつ』のパロディと思われる小文は、以下のようなものだった。

〈利家は聞いた、/『一緒に死んでくれるか?』/若松監督は答えた/『まあ、選手あっての事ですからねえ』〉

どん底と言われた時代、床を這いつくばりながら、こんなことを考えていたのだ。もはや執念を超え、狂気である。

そんな執念とは逆行するようだが、横山はこんな指摘もする。

「かつて大御所と言われたタレントは、1時間番組を作るのに3時間も4時間も撮ったものです。でも有吉は、1時間番組だったら、1時間10分で作る。時間のロスがなくて、視聴率はいい。時短営業を実践しているタレントですよ。これほど今の時代にふさわしいタレントはいないんじゃないですか」

ただ、横山は再ブレイク中も、ずっとこう思っていたという。

「どっかで落ちるだろ」

今も思っているのかと問うと、こう言った。

「もう、逃げ切ったでしょ。明日やめますって言っても、お金は持っていますから」

大気中を浮遊している凧は、いつかは落ちてくる。しかし、無重力圏まで上がれば、もう落ちてくることはない。

【プロフィール】

中村計(なかむら・けい)/ノンフィクションライター。1973年、千葉県生まれ。著書に『甲子園が割れた日』『勝ち過ぎた監督』『金足農業、燃ゆ』『クワバカ』など。ナイツ・塙宣之の著書『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』の取材・構成を担当。

※週刊ポスト2021年10月15・22日号