一夫多妻生活の寝室から人目を忍ぶレズビアンセックスまで、アフリカ女性のステレオタイプを覆す「自由で多様な愛」と「人生最高のセックス」について、ガーナ人作家のナナ・ダルコア・セキアマーに聞いた。
※本稿はクーリエジャポンによる寄稿を一部編集・抜粋しています。
ナナ・ダルコア・セキアマーは穏やかな微笑みをたたえている。話すときも笑顔を絶やさない。アフリカの女性たちが性の解放を求めて乗り越えてきた困難を語るとき以外は──。
故郷であるガーナの首都アクラから取材に応じた彼女は、自分がセックスに関する本を上梓したことに現地では「誰も驚いていない」と話す。ブロガー、作家、自称「ポジティブな性の伝道師」として、セキアマーは10年以上にわたりアフリカ女性の性的体験談を集め、記録してきた。
新著『アフリカ女性のセックスライフ』は、アフリカ大陸のさまざまな国の女性、そして移民として海外で暮らすアフリカ女性の“告白”をアンソロジーにまとめた作品だ。内容は自己発見、自由、癒しの3部で構成され、それぞれの「セックスライフ」が一人称で語られている。
ページをめくると、セネガルでの一夫多妻生活の寝室から、エジプト・カイロのトイレでの人目を忍ぶレズビアンセックス、アメリカでのポリアモリー(合意のうえで複数の人と関係を結ぶ恋愛スタイル)の世界へと引き込まれるが、決して扇情主義や本質主義に走っていない。
セキアマーが人生と同様に本作で目指したのは、アフリカ女性たちが「性やセクシュアリティについてオープンに正直に語るきっかけをつくる」ことだ。
セキアマーは一夫多妻婚をしたガーナ人の両親のもとにロンドンで生まれ、ガーナで育った。アクラで過ごした人格形成期は、家父長的で保守的なカトリック社会のなかで、セックスとそれに伴う潜在的なリスク──妊娠や辱め、「堕落した」女性になること──への恐怖が刷り込まれた。
「一度、生理が来なかったことがありました」と彼女は振り返る。「当時はカトリックの学校に通っていたので、修道院に毎日行って祈りました。妊娠してしまったと思っていたから」
思春期を迎えた瞬間から、こう言われるようになった。「生理が始まったらもう女なんだから、男に触らせてはだめよ」と。「その言葉が頭から離れませんでした」と彼女は言う。
のちにこうも言われた。「離婚したら、もらい手はなくなるよ。子持ちの独身女なんて、男からしたら性の対象でしかないから。パートナー候補としてなんか見てくれないよ」
彼女の母親は性について話すとき、いつも戒めるような口調だった。
「男の子といちゃつくなんて私には恐ろしかった。だから何年も処女でした」
10代後半、セキアマーはイギリスに留学してフェミニズム文学を読み始めた。そして自身を含め女性たちに植えつけられた恐怖心が、自分の体や喜びを思いのままにすることをどれほど妨げているかを思い知った。
ガーナに帰国すると、2009年にブログ「アフリカ女性の寝室からの冒険」を共同で立ち上げた。
「私自身の話や経験を共有し、他の女性たちにもそれぞれの話をシェアするよう呼びかけるところから始めました。そうしてこのブログは、アフリカ女性が大陸にいても移民として海外にいても、経験を共有し、互いに学び合う共有の空間になったのです」
ブログは大ヒットし、愛や官能に関するアフリカ女性からの投稿が殺到した。ガーナで名誉ある賞を受賞し、セキアマーと共同創設者のマラカ・グラントは世界的に知られるようになった。だがしばらくすると、彼女はもっと長いものを読んだり書いたりしたくなった。そして気付いた。
「アフリカ女性の性やセクシュアリティの実態を世界は何もわかっていない。アフリカ女性といえば、抑圧されている、年がら年中妊娠している、生理用品を持っていない、あるいは女性器切除を受けている人ばかりだと思っている。私はブログを通してありとあらゆる経験について知っていたので、アフリカ女性の性体験に関する本を書きたいと思いました」
女性たちの経験を聞くインタビューはさまざまな形で行われた。彼女が各地を巡って取材先を探すこともあれば、ソーシャルメディアで「最高のセックスライフを送っている人」を募集したりもした。
経験談はサハラ砂漠以南のアフリカ諸国からだけでなく、欧米で暮らすアフリカ移民からも集まった。性の目覚めや欲求不満、究極的にはある種の自由を語るものだった。彼女たちに共通するのは、気楽さや奔放さ、自分の体や性的欲求を熟知していることで、多くの場合はそうした性の主体性が認められないような社会的状況にあった。
そのようにして出来上がったのが、30ヵ国以上に広がる、ある意味で“秘められた声”のコミュニティーだ。「インタビューの過程で女性たちと親しくなりました。大部分の人たちとは今もつながっています」
彼女たちに背中を押され、セキアマー自身、「ガーナのバイセクシャル女性」として自分の経験を正直かつ率直に書いた。それは、学校で女の子と性的に親密になり、ポリアモリーに目覚めた末に結婚、そして夫と別れる強さを身に付けた女性の物語だ。
セキアマーは現在、「ソロポリアモリスト」を自称している。複数の人と関係を持つけれど、独り身のライフスタイルを貫いているという意味だ。
女性たちがプライベートな話を打ち明けた動機は、しばしば政治的なものだった。「自分の話を世に出すことが重要だと感じるフェミニストもいました」という。
ほかには、胸にしまっていたネガティブな経験をはき出したい人たちもいた。「子供時代に受けた性的虐待の話をする人が多く、重い話に少し気が滅入るときもありました」
性的暴行は本作の至るところに散りばめられている。時には話のついでに、驚くほどさりげなく語られていて、多くのアフリカ女性が避けられないことと諦めている様子を浮き彫りにしている。
だがセキアマーは、そうした話を共有することが力になると信じている。アフリカ女性はどんな経験をしていようと「決して異常ではありません」という。
「あまりにも多くの女性が児童性的虐待やあらゆる類いの虐待を経験しているのはひどいことです。ですが、みな虐待を乗り越えてもいます。私が学んだ教訓は、どのような形であれ癒しのための空間と時間を作ることの重要性でした」
「その形は女性によって異なります。一部の人にとっては、活動家として女性の権利を主張することでした。また、禁欲を100日間、1000日間と守ることだったり、魂の旅に出ることだったりもします。性行為そのもので自分の体にのめり込むことが癒しになる人もいました」
インタビュー相手の中には、「真髄を究めて最高のセックスライフを満喫している」と思わされる人もいたという。彼女たちのほとんどが、他人にどう見られるか気にするのをやめていた。
「彼女たちは概して社会規範の外で生きていると見なされるような人たちで、異性愛者でも一夫一婦主義でもなく、クィアやポリアモリーの傾向がありました。自分が誰で自分には何がいいのかをしっかりと見つけ、社会の雑音を頭から締め出したからこそ、そのように生きられるようになったのだと思います。ですが、それは簡単にできるものではありません」
そこに決まった処方箋はないとセキアマーは見ている。ある人にとっては子供の頃に受けた性的虐待に向き合うことかもしれないし、別の人にとっては過去を忘れて前に進むことかもしれない。
「誰もが必ずしもトラウマを公表したり、トラウマに目を向けたり触れたりしなければならないというわけではありません」
セキアマーが目指したのは、アフリカ女性のセックスライフに対する「世のステレオタイプを覆す」ことで、それは「かなりの程度まで達成できた」と手ごたえを感じている。ただ、その過程で彼女自身も固定観念を抱いていたことに気づいた。
「たとえば、女性器を切除された女性はみなセックスで喜びを得られないと思っていました。でも切除を受けた女性にインタビューすると、ものすごい性体験について語ってくれて、私の固定観念は吹き飛びました」
「頭の中ではクリトリスがないのにどうやって? と思っていて、それをどう聞こうか迷っていました。でも彼女は、クリトリスは体内に通じているのだと思い出させてくれた。理論的にはわかっていただけに恥ずかしい思いをしました」
セキアマーの新著は、リサ・タッデオ著『三人の女たちの抗えない欲望』と比較されている。3人のアメリカ人女性のセックスライフを描いて2019年に口コミでヒットした作品だ。セキアマーはそれを承知しつつも、ユーモアを交えてはっきりと否定した。
いわく、『三人の女たち』は大好きだが、自著は「そのアフリカ版ではまったくない」と語る。「比較できるものではないんです。(タッデオは)3人の女性を深掘りしていますが、私は幅をもたせたかった。重要なのは、同じ生涯でもさまざまな経験があるということです。そういった可変性を盛り込みたかったし、そうするには幅を見せるしかないと考えました」
その“幅”の中心に流れるのは、アフリカ女性のロマンチックで性的な取り決めの数々だ。セキアマーはその生い立ちもあって、一夫一婦制だけが普通だというような偏狭な考えは持っていない。
「関係性にはさまざまな形があることを知ってほしかった。人が築く家庭の形はさまざまで、私たちはそのすべてを正当と認める必要があります。異性婚の子供のほうが、クィアや一夫多妻婚の子供よりも幸せだとは思いません。これは私自身の経験から言えることです」
もちろん、アフリカ女性のセックスライフを全容から細部まですべて捉えるのは、インタビューする女性の数をできるだけ増やしたとしても不可能な作業だ。セキアマーは本作で壮大な物語を書き上げることよりも、特定の読者層に極めて具体的なメッセージを発信することを目指した。
「ある読者層を念頭に置いていました。黒人女性とアフリカ女性で、大陸の人々と移民の両方です。彼女たちに自分のあり方は他にもあるということ、そうした多様なあり方の中から自分にあったものを選べばいいということを知ってもらいたかった」
その意味で、本作はセキアマー自身の人生にも新たな希望と決意をもたらしている。若い頃から生理を恐れ、未婚での妊娠や離婚、シングルマザーになることを恐れるよう教えられてきたにもかかわらず、彼女はそのすべてを経験し、乗り越えてきた。
現在、アクラで1歳4ヵ月の娘と暮らす彼女は、「フェミニストのママ」として、娘の「恐れのない心」を守ることが一番の仕事だと感じている。自分が選んだ道に疑念や不安はあったが、本を書くため女性たちにインタビューしていくうちにすべて払拭されたという。
「40代の独身女性としては20年後、30年後にどうなっているか悩むでしょう。だから60代後半で恋に落ちた70代の女性に会えてよかった。それもありなのです。時間はあるから、焦る必要はありません」