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マダムたちが夢中!「介護福祉のアイドル」の素顔〜俳優から介護予防の道へ〜

久野秀隆

※本稿は東洋経済オンラインの川内イオ氏による寄稿を一部編集・抜粋しています。

6月26日、神奈川県横須賀市久里浜の八幡町内会館。いかにもローカルな公民館でひと仕事終えた久野秀隆さんに、「俳優の山田孝之さんに似てると言われませんか?」と尋ねると、「めちゃくちゃ言われますね」と苦笑した。

「自動販売機に貼られている山田さんの広告を見て、『あ、先生だ』という方もいますよでもね、名前を間違えて憶えている方も多いんです。『先生、やまだたかおさんにそっくり!』なんてよく言われるんですけど、それはきっと笑点で座布団を運んでいる山田隆夫さんで(笑)。どうやら名前がごっちゃになってるみたいですね」。

俳優の山田孝之さんの名前を思い出そうとして、笑点の山田隆夫さんの名前が口に出る。なかなかダイナミックな勘違いだが、久野さんにとっては「あるある」なのだ。

元俳優、トレーナー、起業家というキャリア

久野さんの職業は、高齢者を対象に運動を指導する、介護予防トレーナーだ。同業の6人を束ねるベンチャー、be awake社の代表を務める起業家でもあり、神奈川県を中心に年間で延べ6万人のシニアに体操を指導している。そして、そのキャリアを遡れば、ドラマ『ウォーターボーイズ2』や映画『DEAD OR ALIVE 2 逃亡者』に出演していた元役者でもある。

介護福祉業界で異色の経歴を持つ男は、人呼んで「介護予防トレーナーの貴公子」。バレンタインデーには、平均年齢70歳のマダムたちから、およそ500個のプレゼントをもらう、新時代のアイドルなのである。

それにしても、なぜ華やかな役者の道を離れて介護予防の道を選んだのか。芸能界で過ごした時代を振り返ってもらおう。

目鼻立ちがはっきりした日本人離れした風貌の久野さんは、物心つく前から町中でよく、「タレントになりませんか?」とスカウトされていたそうだ。小さい頃は喘息を患っていたこともあって、両親は取り合わなかったそうだが、10歳のときに自ら一歩を踏み出した。

「小学校に入ってサッカーを始めたんですが、10歳のときに足を痛めてサッカーを辞めたんです。そしたら週末が暇になってしまって。暇そうにしているのを見かねたのか、母親が冗談で『タレントでもやったら?』と言ったのを真に受け(笑)、新聞の端に載っていた広告を見て、自分で応募しました」

応募先はセントラル子供劇団。偶然にも、幼い頃の久野さんによく声をかけていた事務所で、トントン拍子に子役となった。

それからたくさんの仕事を受けるようになった、久野さんの転機になったのは、高校2年生、17歳のときに出演したドラマ『ウォーターボーイズ2』(2004年7月~9月に放送)だ。男子高校生たちがシンクロナイズドスイミング部を設立して奮闘する学園モノで、市原隼人、石原さとみ、小池徹平らが出演していた。久野さんは、最終回には視聴率22.8%を記録したこの人気ドラマが、「生きていくうえでいちばん重要だった」と振り返る。

「人に何かを教えるのは面白いな」と思った

「ボーイズが32人いたんですけど、最初はそのうちの25人ぐらいが泳げなかったんです。だから、最初の2カ月間は泳ぐ訓練だけ。水泳の合宿でいろんなところに行きました。そのとき、僕は32人の中で下から2番目の年齢だったんですが、3歳から水泳をしていて、小6、中1のときには全国大会の100m自由形で7位になったこともあったので、先輩たちから『泳ぎを教えて』と言われて、何人かに教えたんですよ。まったくの我流でしたけど、それをきっかけに、人に何かを教えるのは面白いなと思うようになったんです」

『ウォーターボーイズ2』の撮影が終わると、地元の片瀬海岸でライフセービングのアルバイトを始めた。そのときに、日本赤十字社認定の救急法救急員、水上安全法救助員の資格も取得。ライフセービングの仕事がない季節は、子どもたちに水泳を教えるようになった。

日本大学芸術学部に進学してからは、フィットネスジムで水の中のパーソナルトレーナーを始めた。脳梗塞で麻痺が残る人のリハビリをプールで指導するような仕事だ。

しかし、ライフセービングやパーソナルトレーナーは、あくまでアルバイト。大学で腕を磨き、役者として生きていくつもりだった

ところが、ある出会いが運命を変える。大学2年生の冬のある日。仕事で知り合った著名な映画プロデューサーから、「お前は出るより作るほうが向いてるよ」と言われたのをきっかけに、製作側の勉強をしようと、そのプロデューサーの秘書についた。そして大学に通いながら、弟子のような立場で企画書の作成から、経理、映画のおカネを集めることまで何でも任されるようになり、とにかく必死に駆け抜けるような毎日だった。そうしてあっという間の1年が経った頃、久野さんは芸能界から離れることを決める。

「納期に追われる生活で、日々の生活がどんどんすさんでいくんですよ。それまで映画やドラマに出る側だったのが、出る人を使う側の立場になって、舞台裏をいろいろ知って心が疲れたんですよね。誰かに使われる仕事ではなく、自分で思ったことを形にしたいと思うようになったんです」

独り立ちしようと考えたときに、思い浮かんだのは、「人にありがとうと言ってもらえる仕事がしたい」。久野さんは自分のスキルを生かそうと、プロフェッショナルのパーソナルトレーナーとして、be awakeを立ち上げた。1999年、21歳のときだった

久野さんによると、当時、どこのフィットネスクラブでも、パーソナルトレーニングを受ける人の割合は3%程度だった。その3%の会員はフィットネスクラブにとって、月会費プラスαの収益をもたらす大切な顧客だ。

パーソナルトレーナーは美容師と同じで指名制なので、指名の多いパーソナルトレーナーの存在はフィットネスクラブにとって、大きなメリットになる。逆に言えば、人気のパーソナルトレーナーは引っ張りだこのため、常に新しい人材が求められている。

学生時代、ライフセービングや水泳のパーソナルトレーナーをしていた経験があり、ビジネスの現場で礼節を学んでいて、なおかつビジュアル的にも強みがある久野さんは、フィットネスクラブにとっていかにも有望だ。20代前半のパーソナルトレーナーはあまりいなかったが、仕事は順調に増えていった。実はその頃から、久野さんの顧客は、65歳以上の高齢者が多かったという

綾小路きみまろ風のブラックジョークにも爆笑の連続

「ライザップの影響で、パーソナルトレーニングというと若い人が筋トレやダイエットをするイメージがありますが、実際はパーソナルトレーナーをつけると金額が高くなることもあって、若い人はあまりいません。もともとフィットネスクラブの7割が高齢者なので、パーソナルトレーニングを受ける人も高齢者が多いんです。僕の場合、学生時代もそうでしたが、股関節の手術をして半年のリハビリが終わったけど家でどうしたらいいかわからない、脳梗塞でリハビリが終わったけどまだ麻痺が残っているような、高齢者の担当をすることが多かったですね」

祖父母は遠くに住んでいて、高齢者と距離が近かったわけではない久野さんは、当初、指名してくれる高齢者との会話に少なからず苦労したそうだ。特に困ったのが病気、障害などの医療用語。「知らない言葉」のオンパレードだったという。しかし、パーソナルトレーナーにとって、コミュニケーションは生命線だ。耳にしたことのない言葉があると、ひたすら調べた。このときに培った知識と会話の距離感や進め方が後になって生きてくる。

「腰が痛い人?」。6月26日、13時30分からスタートした介護予防教室の冒頭、久野さんが尋ねた。この日は30人ほどのマダムが参加していて、数人が「はーい」と手を挙げる。続いて、「肩こりがひどい人?」と聞くと、またパラパラと手が挙がる。「それじゃ、頭の調子が悪い人?」というと、ほぼ全員が「はーい!」と応じ、同時に、「あははは!」と笑いが広がった。

久野さんは90分間のレッスンの間、何度もきわどい冗談を飛ばす。そのたびにマダムたちは、いかにも楽しそうに笑顔を見せる。それは、綾小路きみまろの公演でブラックジョークに笑い転げる、マダムの姿と重なった

「左手を挙げて、右手で左の脇の下を揉んでください。ちょっと余計なお肉がじゃまになるかもしれませんが」

一転して休憩時間になると、久野さんはマダムたちの輪を巡り、腰を落として同じ目の高さでマダムたちの話に耳を傾けていた。「腰が痛い」というマダムがいれば、「どこらへん? 大丈夫?」と擦ってあげる。そのとき、マダムの頬は桜色に染まっていた。

介護予防トレーナーによる高齢者向けの体操教室と聞いて、穏やかに、黙々と体を動かすクラスを想像していた。そのため、ここまでにぎやかで笑いがあふれ、密なコミュニケーションがあるのは意外だった。このクラスが人気になるのもうなずける。

35市町村で年間延べ6万人を指導する

久野さん率いるbe awakeは、神奈川県下の箱根町を除く、35市町村、静岡の熱海、東京の八王子と町田で、介護予防の体操クラスを受け持っていて、久野さんを含めて7人のメンバーが各地で1日2クラスを担当している。これからさらに、東京の昭島とあきる野市が加わる。年間に指導するのは、見出しで記したように延べ6万人。パーソナルトレーナー時代からは考えられない数字だ。久野さんがジムを飛び出したのは、そこに理由がある。

東日本大震災のときに、計画停電などがあって、2週間ぐらいフィットネスクラブがお休みになったんです。僕らは曜日ごとにフィットネスクラブに入って仕事をしていたので、営業してないとお休みになります。そのときにフィットネスクラブに通っているのは、人口の3~4%だから、残りの96%の人たちのために、自分たちから地域に出たほうが面白いんじゃないか、という話になったんですよね」

このアイデアを知り合いの福祉用具店の経営者に相談したところ、「うちでバックアップするよ」とスポンサーに名乗り出てくれたうえに、各地域で介護予防を普及している地域包括支援センターに紹介してくれた。

フィットネスクラブを出て、自ら地域に足を運ぶプロのトレーナーは珍しい。しかも、高齢者との会話に慣れ、病気や障害の知識も豊富となれば、滅多にいない。久野さんとその仲間たちの評判は瞬く間に広がり、1年目にして依頼は100件を超えた。2年目には300件、3年目には700件と右肩上がりで増えていったが、順風満帆というわけではなかった。

「行政は介護保険、医療保険を使う人を減らしたいから、介護予防を進めようとしています。にもかかわらず、介護予防の講師に対する予算はほとんどないのが現状です。例えば行政から仕事を受けると1講座数千円程度で、家族も養えません。だから、この分野で仕事をするプロがほとんどいなかった。僕らはその状況でもスポンサー企業がいたので参入できましたが、最初は予算ゼロでボランティアの講座もありましたよ」

久野さんと仲間たちは、プロの技術で、「これでは食っていけない」という条件を覆していった。たとえば八幡町内会館のクラスは最初、久野さんが横須賀市からの仕事で訪れたことから始まった。そのクラスに参加した町内会長が久野さんの指導を高く評価し、「町内の高齢者のために開催してほしい」と町内会の予算で新たにオファーしたのだ。その謝礼はもちろん数千円ではないが、月に1度のクラスがもう4年続いていることを考えれば、参加者の満足度の高さがうかがえる。

ここ数年、久野さんの存在は行政機関にも知れ渡り、アドバイザーを務めるようになったことで、介護予防の講師に対する予算をしっかりと確保する市町村が出てきたという。振り返ってみれば、先行者もいない、後ろに続く者もいないブルーオーシャンで、久野さんと仲間たちは「普通のサラリーマンよりもガッツリ稼いでいる」までになった。同時に、マダムから熱烈な支持を受ける、「介護予防トレーナーの貴公子」になっていた。

「バレンタインのプレゼントは、最初は10個ぐらいだったんですけど、今年の2月は500個ぐらいでした。クラスのときにもらうこともありますけど、会社に届くのが多いですね。『直接渡すのは恥ずかしいから送ります』という手紙が入っていたりして。みなさん、僕が独り暮らしと知っているので、チョコだけじゃなくて、生活に役立つものをくれることも多いです。野菜、漬物、キムチとか、ご飯に合うおかずが多いですね(笑)」

クラスの参加者から熱い視線を受けることに戸惑いはない。パーソナルトレーナー時代から、身体の健康だけではなく、心の健康のサポートも大切な仕事だと思っているからだ。

もちろん、運動や痛いところのお手入れの方法を教えるのも大事なんですけど、それは一つの手段であって、高齢者の生活に光を当てるのがいちばんの仕事だというのが、僕らの共通認識です。クラスを受けて『今日も楽しかったね』と帰ってもらうことが目標なんです。たとえばよく話しかけてくれるおばあちゃんは、独り暮らしでいつも『寂しい』と言っていて。そのおばあちゃんがここに来たときは、楽しくて幸せだと言ってくれるんですよ。僕は、ありがとうの一つの形がバレンタインのプレゼントだと思っているんで、数が増えれば増えるほど、この仕事しててよかったなと思いますね」

受け取った「ありがとう」の数は計り知れない

役者を辞め、「人にありがとうと言ってもらえる仕事がしたい」とトレーナーの仕事に就いてから、10年。特に東日本大震災以降、地域に足を向けるようになってから、受け取った「ありがとう」の数は計り知れない。

「もう4年目なんですけど、ひでちゃん、ひでちゃんって、すごい人気です。いつも本当ににぎやかなんですよ。新しい人も1回誘うと、次もまた参加してくれますね」

「私は3年ぐらい参加しています。先生がいい方でしょ。いろいろ相談なんかすると、ちゃんと答えてくれるし。私はここにくるのが楽しくて、普段面白くないことがあっても忘れちゃいます」

クラスが終わった後、2人の高齢者に話を聞いてみると、絶賛のコメントをくれた。その言葉からは、久野さんへの気遣いではなく、信頼と愛を感じた。おカネをもらい、そのうえでこれほど感謝される仕事は、なかなないだろう。

最近、新しくクラスを開いてほしいという依頼が引きも切らないそう。ただ、久野さんが目指すは全国展開。しばらくの間、バレンタインのプレゼントは増え続けそうだ。