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松坂大輔、最後の登板は四球 肩、肘に注射打ち貫いたボロボロの美学

松坂大輔

今季限りで現役を引退する西武の松坂大輔投手(41)が19日の日本ハム戦(メットライフドーム)に先発登板。日米通算377試合目の引退登板で、横浜高の後輩でもある日本ハム・近藤健介外野手(28)と対戦しました。

「右手中指の感覚は今もない」それでも最速118キロを記録

松坂は近藤に一礼してマウンドに上がりました。日本ハム、西武のベンチ、そしてメットライフドームの観客も総立ちで見守る中、投じた第1球は118キロ。2球目にストライクを投じましたが、その後は球が抜け、カウント3ボール1ストライクから大きな拍手の中で投じた最後の1球は、内角に大きく外れました。  

投球を終えた松坂は、日本ハムベンチに向かって、「ありがとうございました」と一礼。万雷の拍手を受けながら、ベンチへ下がりました。晴れやかな表情で、会見で見せたような涙はありませんでした。  

試合前の会見で「本当は投げたくなかった。今の状態もあるし、どこまで投げられるか。もうこれ以上、駄目な姿を見せたくない。と思ってたんですけど、最後ユニホーム姿でマウンドに立つ松坂大輔を見たいと言ってくれる方々がいたので、どうしようもない姿かもしれないですけど、最後の最後、全部さらけだして見てもらおうと思いました」と話した松坂。

右手中指の感覚は今もないそうです。「ボタンを締めるのにも苦労している」と話します。その中でも、キャッチボールを重ね、17日にブルペン入り。18日に1軍合流しました。スポニチ本紙の取材に「トップの位置から投げ下ろす時に、感覚がフッと消える」と打ち明けるほどです。ですが、中日時代にお世話になった治療院でメンテナンスを行い、肩や肘に痛み止めの注射を打ってまで、マウンドに立ったのだとか。  

1998年、横浜高時代の甲子園で春夏連覇を達成。夏の甲子園の準々決勝のPL学園戦で250球を投げ、決勝の京都成章戦でノーヒットノーランを達成しました。西武入団後は、イチロー(当時オリックス)との初対戦で3者連続三振に斬り「自信から確信に変わった」と名フレーズを残しました。

「平成の怪物」、そして1980年度生まれの選手は「松坂世代」と呼ばれました。

レッドソックスへ移籍した際のポスティングは当時日本円で約60億円。日本投手への概念を覆す驚きの額でした。日本代表のエースとして連覇を果たした2006年、2009年のWBCでは2大会連続MVPとなりました。四半世紀の間、球界の中心に松坂がいました。  

「ボロボロになるまで大好きな野球をやりたい」──。その思いを貫いた松坂。すべての人に感謝の思いを込めた最後の登板。「今日という日がきてほしいような、きてほしくなかったような、そんな思いがあったんですけど、投げてそこで自分の気持ちもすっきりするのかな、すっきりしてほしいと思います」と話していたが、球場の視線を一身に集めた「平成の怪物」は、やり切った表情で、ファンに帽子をとり、手を振りました。  

松坂のコメント 

最初、グラウンドに出た瞬間のファンの皆さんの拍手に感動しました。正直、プロのマウンドに立っていい状態ではなかったですが、最後の相手になってくれた、北海道日本ハムファイターズの皆さん、打席に立ってくれた近藤選手、そして今日球場までお越しいただいたファンの皆さん、球場には来れなくてもテレビなどで応援してくれたファンの方々に感謝しています。